ロカルノ映画祭総括 - サウダーヂを忘れる

ロカルノ映画祭総括 – サウダーヂを忘れる

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ロカルノ映画祭後、複数の海外メディアに「サウダーヂ」を取り上げて頂きました。
こちらで紹介いたします。

「ロカルノ映画祭授賞式、『サウダーヂ』を忘れる」
liberation2.jpg 「(…)とりわけ疑問に思うのは、どうしたら審査員たちは、これまで無名だった39歳の日本人監督富田克也の『サウダーヂ』に賞を与えずにいられたのかということだ。三時間ちかくあるこの作品は、いまや見られなくなった自由さで撮られている。上映会場フェヴィでの舞台挨拶では、主演俳優のラッパー・田我流がフリースタイルを披露し、その即興の歌の中で日本の政治家たちが嘘つきであることを激しく非難しながら、3月11日の大地震、津波の二重の大災害の被災者たちにそのフロウを捧げた。3月の大災害以前に撮られている『サウダーヂ』は病んでいる日本社会を見せながら、日本の権力者たちに公然と挑むことをもはや恐れることはない。『サウダーヂ』というポルトガル語のタイトルは、気取ってつけられたわけではない。同作品は、3つ、あるいは4つに分かれる人々の生の軌跡を追いながら、タイ人、日系ブラジル人たちの日常を描いているのだ。彼らの存在は日本社会で認識されていないが、建設工事現場の労働者、あるいはバーのホステスとして働く者もいれば、どこからも拒否されてしまう者もいる。『サウダーヂ』はまた日本人の若者の混乱も描いている。すべてを約束されながら、突然の経済危機によって、外国人を排斥するような言説や、社会の中でまったく居場所を見いだせない者たちを、彼らの場所を奪おうとしていると非難することでしか答えを見いだせず、激しくぶつかり合ってしまう若者たちの狼狽を。

 富田克也は、(ヨーロッパではごく一般的な)国や自治体の助成金やテレビ局などの出資を得ることなく、一般市民に寄付金を募ってあつめた約8万ユーロの予算でこの作品をHDビデオカメラで撮った。週日は日本の中央に位置する甲府の周辺でトラック運転手として働き、週末に、主演俳優の鷹野毅や伊藤仁が働く建設工事現場をロケ地に撮影を行った。かつてのジャン=リュック・ゴダールの処女短編作『コンクリート作戦』が思い出される。「L’Expresso」誌の優秀なポルトガル人映画批評家、フランシスコ・フェレイラがこの作品について最も明確な比較をしてくれている。そう、『サウダーヂ』は「ロバート・クレイマー的」な作品である。間違えてしまった者も含め、あらゆる言説、意見を羊飼いのように集めるように、自分たちの国を想像したクレーマーが70年代中盤に撮った『マイルストーンズ』のようだ。『サウダーヂ』とは、アイデンティティの建設工事現場であり、そこでは自分たちの墓を掘る者たちが、自らの根源を求めるために必死になっている者たちと出会う。(…)」

フィリップ・アズーリ、フランス、日刊紙「リベラシオン」、2011年8月16日
翻訳:坂本安美

ロカルノは再び大きな映画祭になる」
(…) それでも、今年のロカルノ映画祭では2つ悔やまれることがあった。1つめは(…)。2つめは、日本人作家・富田克也の『サウダーヂ』という新星に映画祭の 審査員が何も賞を与えなかったことだ。例外的な自由と生命力をもったこの作品は、経済危機の犠牲となった小さな都市に暮らす元々の住民と移民(日系ブラジ ル人、タイ人)とのあいだの緊迫した状況を、ヒップホップバトルを背景にして描き出す。トラック運転手として働きながら、インディペンデント制作集団をつくり、自主制作をする映画作家の3作目である。各配給会社は注目をすべし。

ジャック・マンデルボーム、フランス、日刊紙「ルモンド」、2011年8月15日

今年のロカルノ映画祭のインターナショナル・コンペティションは、富田克也『サウダーヂ』という非常に驚くべき作品で幕を閉じた。「ある主題を扱っている」という印象を観客に決して与えることがないにもかかわらず、ブラジル人やタイ人の大コミュニティが存在する日本の小都市における経済的不況や民族のアイデンティティに関わる現代的な問題を、様々な登場人物やシチュエーションを通して描き出している。自主制作作品であり、登場人物たちはプロとアマチュアの両方の俳優によって演じられている。彼ら俳優たちに、富田克也は迷うことなく、自分自身を「字義通りに」表現させながら、自らを絶えず再発見させている。また、そ知らぬ顔で演じられる寸劇、長いシーンと短いワンシーン・ワンショットを、既存の構造に全く頼ることなしにつなぎ合わせるかと思えば、審美的な固定ショットから手持ちカメラにも移行するし、そして、派手さがないためにほとんど気づかれないような夢幻的なシーンさえも試みている。この作品は、とりわけ、排他的で過激主義的なラッパーを追いかけつつ、民族間の友好関係の「ラブ&ピース」的な欲望を嘲りながら、両義性と戯れ、しかし、いかなる脚本上のロジックやヒューマニスト的な駄弁を排しながら、「自らの国の自らの場所にいる(もしくは、いない)という感情は、どこからやってくるのか?」「なぜ他国に移住したいと思い、そして帰郷したいと思うのか?」「なぜある職業をしたいと思うのか?」いう問い対して鋭い視線を投げかけている。『サウダーヂ』は、ロカルノ映画祭で最も賞に近い作品のひとつであったが、残念ながら、受賞しなかった。

ラファエル・ルフェーヴル、映画批評ウェブサイト「クリティカ・ドット・コム」、フランス、2011年8月23日

「(…)本年のロカルノ映画祭のインターナショナル・コンペティションは、授賞式の前日、20作品のなかでも最も優れた作品を上映して、その幕を閉じた。つまり、この作品が受賞しなかったことは、今年の審査員たちにとって最大の失敗である。日本映画でありながらポルトガル語の題名をもつ、『サウダーヂ』という作品である。わずか8万ユーロの予算で製作された作品であり、監督は、トラック運転手が職業であるというインディペンデントの映画作家である。この富田克也という名前にに注目して欲しい。甲府という日本の小さな街で繰り広げられる物語のなかでは、日本人のラッパーや、タイ人と日系ブラジル人の移民が政治的なうごめきの一部となり、若者の不安や政治的・社会的な幻想をを映しだす。そこには、未来が失われている。ロバート・クレイマーの唐突な再来であるかのような、生命力あふれる新たな世代を代表する驚くべき作品である。」

フランシスコ・フェレイラ、Expresso Actual 、ポルトガル、2011年8月20日

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